苦楽堂通信

インタビュー

2023年1月12日号

神戸の鳥瞰図絵師・青山大介さんに8年ぶりに訊く【第1回】

ぼくはなんで155年前の「兵庫津鳥瞰図」を描いたのか

文・苦楽堂編集部

兵庫県立兵庫津ミュージアム1階、自らの作品「古の港都 兵庫津鳥瞰図1868」の脇に立つ青山大介さん。(撮影・苦楽堂編集部)

鳥の目で見た街を描く「鳥瞰図」。日本の第一人者は神戸の人・青山大介さん。その青山さんの2022年新作は、「155年前の兵庫県の中心都市」を描いたものになりました。2022年11月24日、神戸市兵庫区中之島にオープンした「兵庫県立兵庫津ミュージアム(※)」1階フロアに、巨大な(上を歩いて楽しめる!)「古の港都 兵庫津鳥瞰図1868」が展示されたのです。

※県立兵庫津(ひょうごのつ)ミュージアム 1868(慶應4)年、兵庫県が誕生した際に最初の県庁が置かれた地に「初代県庁館」を復元し、その横に兵庫津の歴史を伝える「ひょうごはじまり館」を併設。現在の神戸の中心地・三宮から南東に4㎞弱離れた兵庫津は、江戸時代には北前船の拠点として栄え、県庁ができた155年前には人口2万人を誇る大都市だった。

青山さんには苦楽堂の本に何度もお力添えをいただいています。『次の本へ』(苦楽堂編、2014年刊)のカバーイラストは、今はなき海文堂書店(2013年閉店)の店内鳥瞰図。『芝居小屋戦記』(菱田信也著、2020年刊)では、舞台となる劇場「神戸三宮シアター・エートー」の分解透視図。2015年には苦楽堂ウエブサイト上に長いインタビューも収録させてもらいました。11月23日、青山さんは「兵庫津ミュージアム」開館記念式典で壇上に立ち作品を紹介されました。これはどう見ても晴れ舞台。式典終了後、8年ぶりのインタビューをさせてもらいました。「兵庫津鳥瞰図」誕生の経緯、たっぷりと伺います。

神戸と対比する「兵庫」を描きたかった

式典、お疲れ様でした。

【青山】ありがとうございました。

「兵庫津鳥瞰図」は最初にどこから話が来たんですか?

【青山】3年前に神戸海洋博物館(神戸市中央区波止場町)で画家の谷川夏樹さんと作品展をしていたときに、市会議員の方が「県の職員さんをぜひ紹介したい」と会場に連れてきてくださったんですよ。そのときに兵庫津の原画をお見せして。ぼく7年前、神戸開港150周年記念の年に兵庫津にいっぺんチャレンジして、断念した原画が1枚2枚ほどあったんです。県の方がその絵を見て喜んでくださって。2021年の夏に正式に「青山さん、ちょっとお願いしたいんです。来てくださいませんか」と。そこから打ち合わせを月1ペースぐらいで進めてって。

青山さんは2016年の神戸開港150周年の年に「港町神戸 今昔鳥瞰図2017&1868」で昔の神戸を描いてらっしゃいますよね。

【青山】あれは今の神戸で言うと上は生田神社のあたりで、下はメリケンパークあたりまで。今回の兵庫津からは北東に3〜4㎞離れています。あのときは調べ方がまだ下手で、「たぶん制作に10カ月かかるだろう」というのが見えたんです。「開港150周年の年のうちに終わらないやないか。まったく収入もない中で、10カ月もこれに費やしてたら俺は地獄に落ちるしかない」と思って断念せざるを得なかったんです。

なぜそのとき兵庫津を描こうと思っていたんですか。

【青山】本来は「神戸」開港じゃなくて「兵庫」の開港ですから。もともと兵庫津があるから幕末に開港しているわけで。神戸と対比する意味で兵庫津を描きたかったんですよ。当時の神戸村はくそ田舎で、兵庫津は大都会。今の神戸市民の感覚から言ったらまったく逆。「そうじゃないんだよ」っていうのを、6年前に出したかったんですよ。当時の神戸市文書館の館長さんから、地籍図(※)や写真を見せてもらったりとかしていたんですけれど、やり方間違ってました。見せてもらった明治後期ぐらいの地籍図はアルバムに入ってるんですけど、いちいちコピー取らせてもらうのも大変やなと思ったから、写真でカシャカシャって撮って、後でパソコン上で写真見ながらジグソーパズル貼り付けるような作業してたんですけど、当然合うわけなんかないですよ。やり方が根本的に間違ってた。

※地籍図 土地の境界、用途区分、面積、所有者などを記した地図。土地登記簿の付属地図。公図ともいう。

今回は結構納得のいく資料が多い?

【青山】はい。今回は県から地籍図をデータでいただきました。けどね、これがまた合わないんだ(笑)、当時の測量精度がひどく低いから。地籍図を町ごとに組み合わせても隙間は空くし「この並べ方で合ってるんだろうか」っていう不安はどうしてもつきまとってたんで、神戸市立博物館のデジタルアーカイブ「兵庫神戸実測図」(https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365052)をスクリーンショットして、自分のパソコンの中に大きな「兵庫神戸実測図」を作ったんですよ。1881(明治14)年ぐらいの発行やけど、測量したのは1876〜1877(明治9〜10)年。測量精度はかなり高いと言われていて、路地もおおむね描かれてるんで、その路地の上に怪しい地籍図をジグソーパズルのようにはめ込んでいったんです。そうすると当時の兵庫津の姿が見えてくるんですよ。

でもそのときは青山さん、まだ手にペンを握っていないですよね。

【青山】はい、まだパソコン上での準備作業。

そこからいよいよ描き始めて「いや、ちょっと待て。ここはどう描けばいいんだ」と気がつくことは起きるんですか?

【青山】それはあります。でも、地籍図ではどんな建物が建ってたなんかなんて誰もわからないんですよ。主要なお寺さんとか、有力者の屋敷の場所はわかるんですけど、98パーセントの土地は何が建ってたか誰にもわからないので、ぼくが想像して描くしかない。

「港町神戸鳥瞰図」は現実に存在してるものを描いたわけですよね。

【青山】はい、気ぃ楽です。

楽なんですか!?

【青山】今、在るものをあるだけ描くという意味で。サボらなければいつか終わるわけで。でも、見たこともないとこの町屋を描くのって、やっぱ人間、癖出るんですよ。同じ屋敷ばっかり描いちゃう。でも、実際の街って違うじゃないですか。いろんな建物が建ってる。それをぼくがひとりでやってるとやっぱ癖が出てきてしまって、同じような家ばっかり描いちゃうことになる。それがいちばん気がかりだった。「誰が描いてもこんなんなるよね」みたいに思われるのが嫌やった。

癖を乗り越えていくために、青山さんは何をするんですか。

【青山】いろんなパターンで蔵を描いたり、違う建物を二棟続きで描いたり、同じことの繰り返しにならないようにだけはしたんですけどね。うん、もうそこだけですよ、気ぃつけたのは。

「調べて描いて」とは頼まれていないけれど

たとえば「ここは北風荘右衛門(※)の屋敷だから、その周りに住んでいるのはこういう人だろう」といったストーリーのようなものを……。

※北風荘右衛門 きたかぜそうえもん。兵庫津北浜鍛冶屋町を拠点とした豪商一族。当主は代々「荘右衛門」を襲名。63代貞幹[さだとも、1736~1802]は司馬遼太郎著『菜の花の沖』主人公・高田屋嘉兵衛の支援者としても知られる。

【青山】考えました(笑)。それが楽しみのひとつかもしれません。北風一門が住んでた鍛冶屋町の地籍図には有名な人のご先祖さんが出てくるんです。神戸の郷土史研究家の前田章賀(あきよし)さんが、法務局に通って、その土地の所有者が誰なのかを、地籍図の各町ごとに全部調べたんですよ。それを見ると鍜冶屋町に北風一族や、川西清兵衛(※)、北宮内町には楽天の三木谷浩史さんのご先祖さんとか、いろんな人の名前が出てくるんですよ。「この場所はその人の土地だった」とわかったら、「この家はその人の屋敷らしくしよう」と考えて描く。屋敷の平面図が残って公開されているものは、その形のとおりの屋敷を描く。

※川西清兵衛 兵庫津有数の資産家一族当主の名。六代目清兵衛[1865〜1947]は神戸の地方財閥・川西財閥の創設者で日本毛織の創業者。

屋敷の平面図があるケースもあるわけですか。

【青山】本陣の平面図はネットで公開されていました。浜本陣の一部も平面図が存在しているので、その通りに描きました。あと、岡方惣會所(※)も。できる限りこだわったんですよ。ほんまの兵庫津の姿に近づけたかった。

※岡方惣會所 おかがたそうかいしょ。「惣會所」は今でいう町役場庁舎。兵庫津は岡方、北浜、南浜と3つの自治区に分かれていた。1927(昭和2)年、跡地に兵庫商人の社交場「岡方倶楽部」が建つ。国登録有形文化財。2025年に神戸市文書館が移転予定。

地籍図はあったとしても、そこに、どういう人たちが住んでいたかを考えて描いた人はいなかった、と。

【青山】はい。図書館行って神戸事件(※)を調べたりもしました。滝善三郎が切腹した永福寺が兵庫津にあったんですけど空襲で燃えちゃってて、境内のレイアウトがわからなかったんです、でも、1938(昭和13)年ぐらいの神戸事件の本を見ると、本堂や庫裡(くり)とか境内の簡単なレイアウト図が描いてあったんで、その通りに描いたんです。わかる限り、資料が残ってる限りはもう探し尽くして、最善を尽くして描いていくっていうことだけは、この絵はもう本当にこだわってやりました。

※神戸事件 明治政府最初の外交事件。慶應4(1868)年1月11日、摂津国西宮の警備に向かう途中の備前(現在の岡山県)藩兵が、神戸に上陸中のイギリスおよびフランス兵と衝突し互いに発砲、英仏兵が神戸の一部を占領する事態となった事件。明治政府は外国公使に謝罪し、備前藩士・滝善三郎ひとりに責任を負わせ切腹させることで事件を収めた。青山さんの「兵庫津鳥瞰図」には、事件直前の備前藩の隊列が描き込まれている。

そうすると、調べる行為そのものも鳥瞰図絵師の……というか、「青山大介のしごと」と。

【青山】そうです、はい。県から「調べて描いてくれ」って頼まれたわけじゃないけど。

青山さんが県の担当者に「こういう資料ないかな?」と訊いたことは?

【青山】ありましたよ。「備前藩の隊列ってだいたい何人ぐらいの班分けで動いてたんですか?」って。でも、結局答え返ってこなかった(笑)。

青山さんが「兵庫津鳥瞰図」を描いたことで、この先「兵庫津とはこういうものだ」ということになりますよね。怖さはないですか。

【青山】あります。でも、自分で最善尽くしたっていう自負心があったんで……。

旧居留地や「港町神戸鳥瞰図」は「現代に在るもの」だし、見ようと思えば見れるものを描いた。でも2017年の神戸開港150周年のときに「港町神戸 今昔鳥瞰図」で見ていないものに挑んだ。ここは青山さんにとって大きなジャンプだったと思うんです。なぜ、見ていない150年前を描こうと思われたんですか。

【青山】ぼくにしかできないしごとやからかな。こんだけ調べて、もう絶対自信が持てるっていうぐらいのベースができたんで。「このしごとは自分にしかできないんだ」っていうところが結構強かったかな、と。兵庫津をそれっぽい湊の風景の町として描ける人って世の中にたぶんたくさんいると思うんですけど、こんだけ調べて描く人間はいない。そこは胸張って言えます。

たとえば、今回の「兵庫津鳥瞰図」の1点を誰かが指差して「青山さん、ここはなんでこうなってるんですか」と訊いたときに、青山さんは説明ができる?

【青山】だいたいは。ここは何町で、何街道が通ってて、ここには高札場があって、ここは誰それさんの屋敷や……っていうのは、だいたい、いけます。

「楽しいですよ、上、歩くの!」

「兵庫津鳥瞰図」は最初から1階のエントランスの床に大きくして置くという話だったんですか?

【青山】はい、最初からでした。「床に展示したい」と。

「床にドンと置く」は、兵庫県立大学の講堂で展示した「令和の姫路城下 鳥瞰絵図2021」のほうが先ですよね?

【青山】はい、先ですね。2021年の11月に7.5×6.2mで床ドンしてますからね。あのときは県の兵庫津ミュージアム準備室の人らも「先越された!」って悔しがってましたね(笑)。

姫路はどういう経緯で青山さんにお話が?

【青山】兵庫県立大学さんの敷地の中にある「播磨学研究所(※)」っていう播磨地域の郷土史を研究されているところの所長さんから「姫路の鳥瞰図を描いてほしいんですけど」ってメールが来まして。会いに行きまして、向こうの熱い思いも聞かしてもらって。「これは絶対やりたいな」と思ったんですよ。

※播磨学研究所 兵庫県立大学姫路人間環境キャンパス内にあり、姫路・播磨の歴史文化研究と情報発信を行う研究所。1988[昭和63]年「播磨学研究会」として発足し「播磨学講座」を開始。1993[平成5]年「播磨学研究所」に改組。

自分が描いた鳥瞰図が、でっかくなって足元に置かれる。上を歩くことができる。やってみて、どう思われました?

【青山】いやあ、楽しいですよ、上、歩くの! ほんと自分でも楽しかった。あれは期間限定のイベント展示だったんですけど、大成功でした。あれを発想してくれたのは兵庫県立大の学生さんなんです。学生さんたちが「大きくして出しませんか」と提案してくれたんです。

へえ! それはいい話や。

【青山】ぼくやったら、あの大きさまで引き延ばすっていう発想ないし。元の原画ってほんまちっちゃいもんですけど、あんだけ伸ばされると本当に街の上を飛んで見てるような。見に来てる人らもみんな衝撃ですよね。「あ、うちの家これや!」みたいな人がたくさん来てはって。あれは楽しかった……。「姫路城下 鳥瞰絵図」、今もたびたびどこかで拡げて展示されてるみたいですよ。姫路の高校の学祭とか。あと、県の職員OBさんたちの懇親会のホテルの会場で広げたりとか。

姫路を描くのはかえって難しいんじゃないかなと思ったんですよ。キャラが立ちすぎるお城が奥にいて、そこまで駅から一本調子の道がバーンとある。構図がすでに出来上がっちゃってませんか?

【青山】でも描いてみて、「姫路ってすごい懐深いんやな。いろんなものがあるんだな」っていうのを知りました。明治になって鉄道ができて、駅を降りて大手前通りを歩いて姫路城に行く南北の移動が基本。外の人間はそう思っている。けど、鉄道が通る前って東西に走る西国(さいごく)街道──今の国道2号線が大動脈やったわけです。なので姫路の街の中でも、東西に走る商店街──二階町(にかいまち)がある。大手前通りとの角にヤマトヤシキ(※)があった。ぼく最初は「なんであんなとこに百貨店あんねんやろな」と思ってたんですけど、今回、絵を描いてみて「ああ、鉄道が通る前は西国街道が大動脈やったから、姫路の街は今みたいな縦筋じゃなくて、東西やったんや」と。

※ヤマトヤシキ 1906[明治39]年に姫路市二階町で創業した地元資本の百貨店。2018年2月閉店。

次回予告

めでたく「兵庫津鳥瞰図」は完成しお披露目となりました。しかし、青山さんがここまでの間に描いていたのは兵庫津だけではありません。2009年から合計9回、青山さんは(そのほとんどを自腹で)函館に通い、最新作「函館鳥瞰図」を描き続けていたのです。ついにそれが完成し、函館の本屋さんでお披露目イベントが行われます。次回《【第2回】ぼくはなんで「函館鳥瞰図」を描いたのか》では「青山さん、なんでそこまで函館の街を相手に頑張れたのですか」というお話を伺います。
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