苦楽堂通信

インタビュー

2015年4月12日号

『次の本へ』装画家に訊く─青山大介さん(神戸の鳥瞰図絵師)【第2回】

ぼくはなんで鳥瞰図絵師になったのか

文・苦楽堂編集部

神戸は元町(大丸前)に2014年8月27日に設置された「津波避難情報板」。青山さんの「港町神戸鳥瞰図」が使われている。土地勘のない観光客でも、海からの距離、自分が今どこにいるのかがわかりやすい。同じものが、三宮とハーバーランドにも設置されている。(撮影・苦楽堂)

神戸生まれの神戸育ち。子どもの頃から絵を描くのが好きだった青山さんは、ある日、鳥瞰図に出合い心惹かれる。その絵を描いていたのは石原正(1937-2005)。代表作「ある紐育の一日」をはじめ30点近い鳥瞰図を残した希代の鳥瞰図絵師だ。青山さんは憧れの石原さんに会いに行き「ちょっとだけですけど」修業の経験もできた。「ぼくも石原さんみたいになってみたい」と思った若者は、さてどのようにして神戸を代表する鳥瞰図絵師となったのか。

「ああ、自分の家も燃えるんやな」

ここに至るまでの青山さんのお話を聞かせてください。何年のお生まれですか。

【青山】1976年、昭和51年の2月の10日です。神戸市長田区の南部の生まれです。震災(注・1995年1月17日の阪神淡路大震災)に遭ったときは19歳で、そんときまでそこで暮らしてました。震災んときはもう就職して、大阪の豊中で店舗内装とか家具木工とかの仕事をしてました。須磨の名谷(みょうだに)にあった神戸市立工業高校のインテリア科というとこを出たんですが、今は統廃合でそこはなくなって灘のほうに移転して、神戸市立科学技術高校になってます。名谷のほうは今はマンションになっちゃってます。

高校の進路選択をする頃は、何者になろうと思ってたんですか?

【青山】インテリア科に進んだのは、母親から「こんなとこあるから行ってみい」って言われて、なんとなくいいなと思って。

大学行ってサラリーマンになるという考えは?

【青山】なかったです。頭悪いんで。高校出て就職って考えてました。

震災の日は連休明けの月曜日でした。5時46分、ご自宅は?

【青山】全壊判定。燃えはしなかったですけど、もうほんとにワンブロック隣から丸焼け。あんときは「ああ、自分の家も燃えるんやな」と思ってましたけどね。

19歳やったらはっきり覚えてますよね。

【青山】その代わりというかおかげというか、この20年間はずうっと復興を見てこれたんで、それは一生の宝やと思ってますけどね。

高校生のときに鳥瞰図というものに出合ってるんですよね。

【青山】はい、石原正さんの。

石原正(いしはら・ただし)
1937年、北海道函館市生まれ。金沢美術工芸大学卒業後、大阪読売広告入社。69年に退社し、都市鳥瞰図絵師となる。「ある紐育の一日」「大阪万博マップ」「京都絵図その1~3」ほか約30点の作品を制作。神戸ゆかりの作品に82万部を売り上げた「神戸博公式ガイドマップ」、「神戸絵図」がある。著作に『鵜の目、俺(タカ)の目』(東方出版、1993年)、共著に『鳥瞰図絵師の眼』(INAX出版、2001年)がある。2005年没。

「箱描くのなんかお茶の子さいさい」

石原さんの鳥瞰図に出合う前から、絵を描くことは好きだったんですか。

【青山】好きでしたね。幼稚園、小学校、中学校とずっと、外で遊ぶよりも家で絵を描いてるほうが好きでした。橋描いたり家描いたり(笑)。ふつうの人が描くような風景画とかじゃなくて。都市にありそうなものをひたすら描いてましたね。自分の感性にはこれが合ってたんです。中学生くらいの頃から、こんなに細かくないですけど、鳥瞰図っぽいの描いてました。立体感、すでにありましたね。ずーっとそうやって描いてきて、立方体を描くことに抵抗とかぜんぜんなかったんですよ、幼い頃から培って(笑)きて。箱描くのなんかお茶の子さいさい(笑)。

立体描けない人、多いじゃないですか。

【青山】多い、ほんとに多いです!

立体にもいろいろあって、山岳鳥瞰図ですとか、自然が生み出している「直線がないもの」もありますよね。神戸の街を描く青山さんの鳥瞰図は直線の世界。

【青山】はい、ぼくは直線なんです。自然の鳥瞰図見ても、きれいやな、とは思うけど、満足感とか幸せな思いとか全然ないんですよ(笑)。ぼくがいちばん、ばしん、と来るのはやっぱり石原正さんの鳥瞰図なんですよ。ぼくにとっては鳥瞰図イコール石原正なんです。あの人の影響がいちばん大きいんです。

石原さんの鳥瞰図は何点くらいあるんですか。

【青山】30点くらいつくられてると思います。

石原さんが亡くなられたのはおいくつですか。

【青山】68歳。

68年生きて30点。鳥瞰図というのはそういうものなのですか。

【青山】ええ、特に石原さんの場合はそうですね。この人のやり方やったら、一作つくるのに1年2年かかるでしょう。短時間勝負でできるほかの人とやり方が違うんで、たくさんは生み出せないですね。

以前青山さんに伺ったんですが、高校の時に石原さんの作品に出合い、遂にはご本人にも出会う、と。修業もさせてもらったんですよね。

【青山】ちょっとだけですけどね。

そこで駄目出しもされた、と。

【青山】はい。

「ぼくも石原さんになってみたいな」までは想像できるんですけど、「これで食っていこう」はまた別の話ではないですか。

【青山】そうなんです。ぼく、そこらへんほとんど欠落してるんですよ。「やりたいだけ」だったんです。今だに欠落してますね。どうやって食っていったらいいんだろう、と。今はちょっとお小遣い程度にはお金が入ってくるようになりましたけど。

『次の本へ』のカバーを見たどこかの子が「ぼくもこういうのを描いてみたい」と思っているかもしれない。このインタビュー記事にたどり着いているかもしれない。青山さんが石原さんの役になっているのかもしれない。そうやってバトンというのは渡っていくかもしれない。

【青山】そう、そうなんですよね。

なので訊くわけですが、今、青山さんはどうやってご飯を食べているのですか。

【青山】はっはっは(笑)。今は、前に勤めていた会社でバイトをしてます。最近は表紙絵のお仕事をいくつかいただいてまして、商船三井さんの社内報「UNABARA」と阪神高速道路さんの季刊誌「阪神ハイウェイ」の表紙を描かせてもらってます。今まで関わることがなかったところとおつきあいできることは幸せですね。どちらとも1年間のお仕事なので、それが切れると次はまた困るんですけどね(笑)。

自分の街から必要とされる人間になりたい

彼らはどうやって青山さんのことを知ったんですか。

【青山】阪神高速さんは制作会社さん経由で、テレビや新聞でご存じだったみたいです。2013年の4月にくとうてんさんから「港町神戸鳥瞰図2008」を出してもらったときにテレビや新聞に取り上げてもらって、9月の海文堂書店さんの閉店騒ぎのときに「海文堂書店絵図」も取り上げてもらって。11月のトークイベントも記事にしてもらいました。その頃に、津波避難情報板の打診が神戸市から来たんです。なんかこう、だんだんいろんな橋が架かっていくようなかんじですね。

青山さんはこの20年の、震災からここまで変わってきた来た神戸をずっと見ている。しかもただ見るのではなく、鳥瞰図絵師として見てきた。「俺は神戸の鳥瞰図絵師で良かった」と思うことってありますか。

【青山】鳥瞰図絵師だという前に、神戸に生まれて育ってきて、20年見てきて、今、こういう立場になれて、すごく幸せですね。高校の時くらいに思ってたんですけど、自分の街から必要とされる人間になりたいと思ってたんです。漠然とですけど。で、郷土史とか紐解いていったら、キーマンになる人とか何人かいらっしゃる。ああ、そんな人になりたいなと思ったんです。それがすぐには鳥瞰図に直結してないんですけど、つねづね街に貢献したいという思いはずっとありまして。鳥瞰図絵師という仕事は、その思いとなんかうまいことマッチしたところはあります。しかも震災20年の節目にしようと思って描いたわけでもないんですけど、それがいろんなところで取り上げられて、震災20年目の青山大介っていろんなところで取り上げられてもらえる。10年目のときは、そんな自分になると思ってませんでしたし。20年経ってそうなれた今はすごく幸せですね。

神戸という街で青山さんの認知は上がってきたと思うんですけど、市内を歩くときに変装する必要は生じてますか?

【青山】あ、まだいまんとこは、大丈夫です、はい(笑)。

青山さんが描くものの認知が高まっていって、今では元町に、三宮に、ハーバーランドに、青山さんが描いたものが神戸市の津波避難情報板になって建っている。親御さん、喜んでいるのでは?

【青山】最初は「そんなんばっかして、何してんの」というかんじだったのが、心配の度合いがちょっと変わってきてると思います。今は絵ぇ描いてても、そのことに関しては文句言われなくなったんで(笑)。

孫が紅白歌合戦に出ると、田舎のおじいちゃんは喜ぶわけです。青山さんの紅白歌合戦は津波避難情報板?

【青山】今のところはそれですね。伯父には「青山のうちからこんな凄いのが出てくるとは思えへんかった」と言われます(笑)。

うわあ、良かったっすねえ!

【青山】どの血なのかわからないんですけどね。父は伯父がやってた鉄工所に勤めてました。じいちゃんはその鉄工所をつくった人です。ものづくり系? なんですけど、自分の手でちまちま描いたもので勝負するという世界とは違いますからね。

おじいさんの代から神戸ですか?

【青山】いえ、父方の祖父は新潟です。妙高やったかな。祖母は兵庫区の娘ですけど、その先代は淡路島の洲本から出てきたそうです。母方の実家は神戸の西区の農家です。

「神戸の街は三代遡ると、どこかから来た人になりますよね。

【青山】はい、大半がそうですね。次男坊がどこかから出てきて大きくなった街ってよく言われます。

次回予告

青山さんはこう言います。「震災20年目の神戸で、神戸の鳥瞰図が生み出してくれるピークはそこでしょうから、なんか次のものをつくらんと」。第3回(最終回)では青山さんに「これから何を描きたいか」を伺います。第3回はこちら
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